(余談) さすらいのピアノマン

合田さん - 毎日新聞

大阪あいりん地区に出没するピアノマンのニュースに驚愕すると同時に、ちょっと感傷的になってしまった。というのも、注目の的になっている当の合田さん、実は私がガキの頃のピアノの先生だったからだ(名前と容貌から判断してほぼ間違いないと思う)。
もうかれこれ20数年前のことになるが、当時はまだ教室を構えておらず、教え子宅を定期的に巡回訪問して移動教室のような感じでピアノレッスンをやっていた。厳しい先生で、よく泣かされたもんだ(苦笑)。夏休みだったかに一度、上級生の女の子と一緒に先生宅にお邪魔して特別レッスン(のようなもの)を受けたことも覚えている。確かマンションの一室にグランドピアノが設置されており、勝手に寝室を覗いて怒られた記憶もある(笑)。発表会では自ら歌曲を披露されていたので、ピアノの先生によくありがちな音大出の声楽家かと思っていたのだが、記事によれば関学出身ということなので、故武満徹みたくほとんど独学で音楽を勉強されていたのだろうか。だが、途中でドイツに留学するとかなんとかという個人的な事情でレッスンが打ち切りになったような事態をおぼろげながらに覚えているので、ひょっとしたら後々ヨーロッパに留学されたのかもしれない(あくまで憶測)。むろんその後はお付き合いも途絶え、才能も無く出来の悪い私は音楽の道から離れ、合田先生のことも記憶の断片として辛うじて頭の片隅に残っている程度の存在に留まっていたのである。それが、こういう哀れな姿で「再会」を果たすことになろうなどと誰が想像できようか。

関西学院大卒業後は神戸市内でピアノ教室を経営、演奏活動もしていた。ところが、95年の阪神大震災で教室が半壊。大阪府内に2度移転した教室には生徒が集まらず、約5年前に多額の負債を抱えて破産した。さらに49歳で初めて就職した楽器店も4カ月で解雇された。妻と離婚、友人にも見放され99年秋、釜ケ崎に流れ着いた。

奇しくも若貴騒動渦中の二子山部屋の栄枯盛衰となんとなく重なって見えてしまうのだが、つまらないプライドや慢心、周囲の人たちへの感謝の念の欠如というものがいかに人や組織をダメにしてしまうか、というような多くの教訓を含んでいるように思えたのは自分だけであろうか。
これはあくまで私の勝手な想像(妄想)であるし、合田先生には非常に酷だけれども、恐らく被災後も多くの友人知人や教え子達が救いの手を差し伸べてくれたに違いなく、にも関わらず、一時隆盛を誇っていた(であろう)音楽教室経営当時の栄華が忘れられずに「いまさらこのオレ様にそんな仕事なんてできるかっ!!」てな具合のしょうもないプライド、状況が変化してもいつまでも抜け切らないお山の大将気分が周囲を困惑させ、結局気が付けば誰もいなくなった、というような無残な有様が目に浮かんでくる。そういう解釈に立てば、仮に阪神大震災という天災に遭遇せずとも、いずれどこかで大きなしっぺ返しを受けていた可能性は大きいだろう。成功は偶然の賜物、運の贈り物だが、失敗や挫折は必然が大きくものを言い、なるべくしてなったケースが多い。

合田さんは「昔はちょっと才能があると思っていい気になっていた。今は名誉欲も物欲も薄れ、手にはピアノを弾く力だけが残った。あるがままの心からあふれ出る音楽に何かを感じてくれれば」と話す。

御歳54ということだから、まだギリギリのところで人生の仕切り直しはできると思う。無心に立ち返った今がラストチャンスであろう。音楽、特にクラシック畑で生活していくのは、はっきり言って大変な困難を伴うけれども(5月20日に放送されたNHKにんげんドキュメント「チューバ 一吹きにかける 38年ぶりの奏者交代」を見ればその一端がよく分かる)、宣伝効果の大きいマスコミの注目も集めているので、なんとか食べていける程度の復活はできるかもしれない。もっとも、仮に自伝の出版とかドラマ化などで脚光を浴びるようになった時に、舞い上がってしまって、またぞろ慢心がむくむくと首をもたげるようなことがなければよいが...。
随分と長文になっちまった。合田先生、身の程知らずの偉そうなこと書いてすいません(苦笑)。幸運を祈っております。機会があれば、こっそり演奏会を聴きに行くかも。
UPDATE (6/15): 昨日開催された再起コンサートの模様がこのブログでレポートされていた。マスコミ取材も殺到、満員御礼だったそうだ。幸先良い、よかった、よかった...。